- 752年(天平勝宝4年)
- 北東大寺の大仏開眼供養が行われる
- 1192年(建久3年)
- 源頼朝が征夷大将軍となる
- 1206年
- モンゴル
チンギス=ハンがモンゴルを統一
- 1397年(応永4年)
- 足利義満 金閣を建立
- 1455年
- イギリス
ばら戦争始まる
- 1467年(応仁元年)
- 応仁の乱
- 1489年(長享3年)
- 足利義政 銀閣を建立
- 1492年
- コロンブスがアメリカ大陸を発見
- 1558年
- イギリス
エリザベス一世が即位
- 1560年
- 桶狭間の戦い
- 1350年(観応元年)
- 初代上林の誕生
足利尊氏配下の赤井秀家が丹波・上林庄の地頭になり、上林秀家と名乗る
- 1504年頃(永正年間)
- 上林家は宇治に茶園を持ち、宇治で足場を築く
- 1524年(大永4年)
- 上林家が宇治で有していた茶園「カマカハサマ」を堀与三右衛門尉に売り渡す
- 1532年頃(天文年間)
- 丹波・上林城が築城
- 1521年〜1569年(大永〜永禄)
- 丹波各地で土豪による勢力争いがあり、赤井氏と上林氏の同族相克の争いが始まる
- 1560年頃(永禄年間)
- 上林久重の四人の息子は丹波・上林郷を離れ放浪時期を経て、永禄年間に宇治に定着
- 1582年(天正10年)
- 本能寺の変
- 1600年(慶長5年9月15日)
- 関ヶ原の戦い
- 初代
- 上林春松
(秀慶)
- 1573年(元亀4年)
- 上林久重は丹波を離れ各地を放浪
- 1574年(天正2年)
- 織田信長の家臣・高田豊後守治忠により丹波の上林城が占拠される
- 1575年(天正3年)
- 原田直政が織田信長の命により上林久重、久茂に槙島城管轄内商人の交通、運輸、宿泊統制の権限を与える
- 1577年(天正5年)
- 信貴山城の戦い
- 1580年(天正8年)
- 放浪の末、上林久重は宇治に定着
- 1582年(天正10年)
- 本能寺の変
- 1584年(天正12年1月4日)
- 豊臣秀吉が上林久茂、森氏両人に、味木・宇治大路氏の茶園を預け、その管理運営を委任する
- 1584年(天正12年3月29日)
- 吉田兼見が宇治を訪れる「兼見卿記」
- 1587年(天正15年)
- 北野大茶会で上林の「極上」が用いられた
- 1589年(天正17年)
- 上林久重、宇治にて死去
- 1591年(天正19年)
- 千利休 切腹
- 1614年(慶長19年)
- 大阪冬の陣
- 1615年(慶長20年)
- 大阪夏の陣
- 1633年(寛永10年)
- 鎖国令
- 1635年(寛永12年)
- 参勤交代が制度化
- 1637年(寛永14年)
- 島原の乱
- 1644年
- 中国
明が滅び、清の支配が始まる
- 1716年(享保元年)
- 享保の改革
- 1776年
- アメリカ
アメリカ独立宣言
- 1787年(天明7年)
- 寛政の改革
- 1789年
- フランス
フランス革命
- 1804年
- フランス
ナポレオン皇帝即位
- 1830年(天保元年)
- 天保の改革
- 1837年(天保8年)
- 大塩平八郎の乱
- 1840年
- アヘン戦争
- 1853年(嘉永6年)
- 米使節ペリー来航(6月)
- 1854年(嘉永7年)
- 日米和親条約調印(開国)
- 1860年(安政7年)
- 桜田門外の変
- 1861年
- アメリカ
アメリカ南北戦争
- 1866年(慶応2年)
- 薩長同盟
- 二代
- 上林春松
(秀栄)
- 三代
- 上林春松
(秀盛)
- 四代
- 上林春松
(秀外)
- 五代
- 上林春松
(秀甫)
- 六代
- 上林春松
(秀朴)
- 七代
- 上林春松
(秀雄)
- 八代
- 上林春松
(秀政)
- 九代
- 上林春松
(秀信)
- 十代
- 上林春松
(秀元)
- 十一代
- 上林春松
(秀利)
- 1603年(慶長8年)
- 徳川家康は上林一族に宇治茶の総支配を命じ、勘定奉行の配下に置き、知行を与え、代官として御茶師全体の総括を担うようになる
- 1604年(慶長9年)
- 秀栄/第二代 上林春松 相続
- 1619年(元和5年)
- 秀盛/第三代 上林春松 相続
- 1633年(寛永10年)
- 御茶壺道中の制度化
- 1671年(寛文11年)
- 秀外/第四代 上林春松 相続
- 1698年(元禄11年)
- 宇治の大火災
- 1706年(宝永3年)
- 秀甫/第五代 上林春松 相続
- 1723年(享保8年)
- 八代将軍吉宗による享保の改革により、御茶壺道中の制度を簡略化する布令がでる
- 1742年(寛保2年)
- 秀朴/第六代 上林春松 相続
- 1748年(延享5年)
- 秀雄/第七代 上林春松 相続
- 1756年(宝歴6年)
- 宇治川の氾濫による大洪水
- 1792年(寛政4年)
- 秀政/第八代 上林春松 相続
- 1821年(文政4年)
- 秀信/第九代 上林春松 相続
- 1824年(文政7年)
- 秀元/第十代 上林春松 相続
- 1848年(嘉永元年)
- 上林春松が、製茶場改築のため、取引き相手の各家に寄付を要請
- 1854年(安政元年)
- 6月14日 大地震のため、宇治・槙島に被害がでる。春松家の製茶場も大破。その修復のため、12月阿波蜂須賀藩役所より銀五貫匁を借用する
- 1858年(安政5年)
- 秀利/第十一代 上林春松 相続
- 1731年(享保16年)
- この年に売茶翁が上洛。1735年には京都東山で売茶の場を始める
- 1738年(元文3年)
- 永谷宗円によって煎茶創製される
- 1818年(文政元年)
- 茶頭取両上林家が、茶師三仲ヶ間に倹約令通達
※「玉露」については諸説あり、残されている文献では天保年間に宇治の各地で創製されたようである(天保年間1831-1845)
- 1837年(天保8年)
- 御袋茶師 上林清泉(牛加)が、「嘉木誌」を著す
- 1867年(慶応3年)
- 大政奉還/坂本龍馬暗殺
- 1871年(明治4年)
- 廃藩置県
- 1894年(明治27年)
- 日清戦争
- 1904年(明治37年)
- 日露戦争
- 十二代
- 上林春松
(秀實)
- 1914年(大正3年)
- 第一次世界大戦 始まる
- 1918年(大正7年)
- 第一次世界大戦 終戦
- 1923年(大正12年)
- 関東大震災
- 十三代
- 上林春松
(賢二)
- 1931年(昭和6年)
- 満州事変
- 1932年(昭和7年)
- 五・一五事件
- 1936年(昭和11年)
- 二・二六事件
- 1939年(昭和14年)
- 第二次世界大戦 始まる
- 1945年(昭和20年)
- 第二次世界大戦 終戦
- 1947年(昭和22年)
- 日本国憲法施行
- 1955年(昭和30年)
- 高度経済成長期に入る
- 1964年(昭和39年)
- 第18回東京オリンピック開催/東海道新幹線 開通
- 1970年(昭和45年)
- 日本万国博覧会 開催(大阪)
- 1975年(昭和50年)
- 山陰新幹線 開通(岡山-博多
- 1982年(昭和57年)
- 東北新幹線 開通(大宮-盛岡)
- 十四代
- 上林春松
(秀章)
- 1943年(昭和18年)
- 上林春松、応召によりビルマ戦線へ
帰還後は卸売りに業態を転換
- 1951年(昭和26年)
- 9月13日 有限会社 上林春松本店(法人設立)
- 1968年(昭和43年)
- 上林春松 取締役会長 就任(65歳)
上林秀章 代表取締役 就任(36歳)
- 1968年(昭和43年)
- 抹茶工場のみ本店に残し、新しい製茶工場と冷蔵庫を移転
- 1975年(昭和50年)
- 京都高島屋を発端に百貨店に進出、卸売りからの転換
- 1979年(昭和54年)
- 秀章/第十四代 上林春松 相続(47歳)
- 1980年(昭和55年)
- 伊勢丹新宿店、ついで伊勢丹浦和店にも出店
- 1998年(平成10年)
- 長野冬季オリンピック 開催
- 1997年(平成9年)
- ジェイアール京都伊勢丹店に出店
- 2000年(平成12年)
- 宇治市の都市計画により社屋、製茶工場を移転
- 2004年(平成16年)
- 上林春松 取締役会長 就任(72歳)
上林秀敏 代表取締役 就任(38歳)
- 2007年(平成19年)
- 10月8日、日本コカ・コーラ社のペットボトル緑茶「綾鷹」の開発協力を行い、発売が開始される
- 2008年(平成20年)
- 4月 リーフ「綾鷹煎茶」発売開始
- 2010年(平成22年)
- 3月 宇治橋通りに直営小売店開店
- 十五代
- 上林春松
(秀敏)
- 2021年(令和3年)
- 秀敏/第十五代 上林春松 相続(55歳)
760年前後(天平宝字 ※757年〜765年)
唐代の中国で陸羽が著した「茶経」。現存する最古の茶書
陸羽が著した「茶経」は「茶は南方の嘉木也」で始まる。
唐代に編まれた中国随一の茶書、『茶経』をひもとくと、お茶を飲む習慣は紀元前3400年頃、「神農」という伝説上の神によって始められたとあります。
神農は人間のために薬となる野草や木の実を求め歩き、毒にあたったとき茶葉で解毒したとされ、一説によると「茶」という言葉は同じ読みを持つ「査」からきているのだそうです。
このように漢方薬の一種として飲み始められたお茶が日常的な飲料として一般社会に広がるのは、はるか後の唐の時代のこと。そして後に、遣唐使や留学僧たちによって、お茶が日本にもたらされるのです。
1191年(建久2年)
栄西禅師によって宋から茶を持ち帰る
抹茶法を日本に伝えたのは、臨済宗の開祖として日本史にその名を残す鎌倉時代の高僧、栄西禅師でした。当時、全盛を誇った臨済禅を学ぶために宋へ渡った栄西禅師は、建久2年(1191年)に茶種と抹茶法を携えて帰国。
※栄西禅師:1141年ー1215年
1211年(承元5年)
栄西禅師「喫茶養生記」完成
お茶の効用を記した喫茶養生記。その中で栄西は、抹茶の製法を「朝摘み取った新芽を蒸し、いったん冷ます。つぎに炭火の上の棚に敷いた紙の上に拡げ、乾燥させる。紙が焦げないように、終夜眠らずに火を調節する」と記し、それは「懈倦怠慢=怠け者にはできないこと」と述べています。
栄西禅師が伝えた抹茶は、座禅の眠気ざましとして利用されるとともに、『喫茶養生記』が鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝に献上されたことによって武家社会にも広まっていきました。
そして南北朝時代に入り、抹茶は広く一般にも普及し、我が国独自の茶道文化を成すに至るのです。
栄西禅師は明恵上人に茶種を分け与え、明恵上人は高山寺の庭にその種を蒔き、その茶樹から採取した茶種を宇治五ヶ庄に蒔いたのが宇治茶の始まりといわれている。
※明恵上人:1173年ー1232年
1380年頃
足利三代将軍義満が宇治の茶園を庇護
宇治の茶園を庇護。この頃から茶の湯文化が形成される。後に上林の琵琶茶園が加わり宇治七茗園と呼ばれるようになる。「森、祝、宇文字(うもんじ)、川下、奥の山、朝日に続く琵琶とこそ知れ」と和歌にも詠まれたが、現存するのは「奥の山」のみである。
※足利義満:1358年ー1408年
1577年(天正5年)
信貴山城の戦い
上林久茂が信長を信貴山城へ道案内をし、これを機に信長から知行を与えられるようになる。
1582年(天正10年)
本能寺の変
本能寺の変が起こった際に、堺に滞在していた徳川家康は抜け道をたどって駿府の居城へ戻る道中、木津川の渡しから水口(滋賀県)まで上林久茂が道案内をした。その際に、手勢の袖に赤い布を付けて目印にしたことにちなんで、後に赤手拭いを称され家康公に認められた。
豊臣秀吉 書状
豊臣秀吉が上林久重に宛てた書状。室町幕府からの有力な茶匠、森家を引き合いに出し、新参の上林家の茶の品質を認めながらも慢心を制し温情と威厳をももって叱咤激励をしている消息である。織田信長に重用された森家に対する反発の現れが、新参の上林家を取り立てることになったのであろう。
1584年(天正12年3月29日)
吉田兼見が宇治を訪れる「兼見卿記」
吉田兼見が宇治へ茶摘みに出かけ、この地一番の繁盛と言われた上林の焙炉場を見物したことが「兼見卿記」に書かれている。
「上林の所を見物す。火倚爐(焙炉)四十八これ在り。茶誘の者、五百人計りこれ在るか。宇治一番の繁昌の由を申しおわんぬ。次いで森の所に罷り向かう。なかなか上林の三分の一の体なり。」
1587年(天正15年)
北野大茶会
豊臣秀吉が京都北野神社の境内と松原において開催した大茶会
1591年(天正19年)
千利休 切腹
利休が秀吉の命で自刃する直前に読まれたと思われる書状『今一度はしたての極上を一服申度候、』「今生の限りとして上林の極上を一服申したい」とある。
※はしたて=橋立の壺に詰められた上林の茶
古田織部 書状
初代春松は、当時の御茶吟味役の職にあった古田織部との交流もあり、手作りの樽酒を届けた礼状など私信が伝えられている。
1600年(慶長5年8月1日)
伏見城の戦いで上林竹庵 討死
四男の上林竹庵はかつて仕えた家康の恩に報いるため、町人でありながら伏見城の攻防戦に籠城軍の一将となって殉じ、後に浄土宗平等院に葬られた。百年忌には平等院に竹庵の座像を寄進し、上林政武が竹庵の顕彰碑を平等院内に建立。そして現在、上林竹庵の座像は宇治・上林記念館に展示されている。
1633年(寛永10年)
御茶壺道中の制度化
上林久茂家と竹庵家が茶頭取を担い、味卜家と春松家は御物御茶師として、一族の繁栄を築いていくことになる。
1633年(寛永10年)
御茶壺道中の制度化
三代将軍家光により、御茶壺道中が制度化される
※徳川家光:在職1623年-1651年
1698年(元禄11年)
宇治の大火災
3月3日宇治の大火災により春松家の長屋門が類焼。上林春松宅をはじめ茶師宅など550軒、茶園10町が焼失。春松家は尾張徳川家より、大判10枚と茶壺二口分の茶料を借用し復旧に当てた。
1738年(元文3年)
永谷宗円によって煎茶創製される
宇治田原町湯屋谷の茶農だった永谷宗円によって、現在の青製湯蒸製法の煎茶が創製された。
※宇治郷の茶園は幕府の管理下におかれ、新茶の摘採、製造期には野奉行が立ち会い、碾茶以外のものの製茶は許されなかった。
1799年(寛政11年)
茶室「松好庵」修理
二畳台目の茶室。上林春松家の敷地内に阿波藩主 蜂須賀公が建立したと伝えられている。建立された年代は不詳だが、寛政11年(1799年)に修理をした旨の銘札が茶室の天井下地から発見された。昭和62年(1987年)の修理を記念して、千玄室大宗匠に「松好庵」の揮毫をいただき、その扁額を掲げている。
1831年〜1845年(天保年間)
綾鷹の誕生
十代春松のことについて書かれた共進会出品添付書より、「天保年間に至り、同志、宮林有斎なる者と相計り、濃茶薄茶に製すべき芽を摘採し、以て煎茶に製し、銘ずるに綾鷹を以てす。是則ち方今世上に玉露と称す。」とある。上林家の所有する宇治郷の茶園は幕府の管理下におかれ、碾茶以外のものの製茶は許されていなかった。そのため、春松は宮林有斎と秘密裏に覆下茶園から摘採し、煎茶と同じ様に精製したところ甘みのあるお茶が仕上り、茶銘を「綾鷹」とした。
1853年(嘉永6年)
ペリー来航により宇治茶師三仲ヶ間一同が連判状を幕府に提出
11月 宇治茶師三仲ヶ間一同が連判状を幕府に提出。「将軍家からは格別の引立てを賜ってきたので、微力ながら軍役に尽力したいので西洋流砲術の稽古を致したい。」という内容。幕末の様子が伺える史料である。
1867年(慶応3年)
最後の御茶壺道中
6月7日 京都二条城を発した幕府採茶師が宇治に到着し、茶詰めを行う。11日に茶壺を江戸へ送り。これが、御茶壺道中の最後となる。江戸幕府の終焉により御茶壺道中も役目を終える事になる。(毎年休みなく行われ235回続いた)
茶師から茶商に転身
天保年間に十代春松が考案し、当時の新製品であった「綾鷹」(後の玉露)を十一代春松が一般向けに販売を始めた。茶師から茶商に転身し茶業の継続を図る。
1879年(明治12年)
第一回製茶共進会に玉露を出品
第一回製茶共進会で「宇治製法」が特別賞を授与され、上林春松も玉露を出品し二等褒賞金三十円を受領する。
1888年(明治21年)
平等院門前に宇治製茶記念碑を建立
明治12年の第一回製茶共進会において「宇治製法」に特別賞が授与され、京都の茶業者たちはこの栄誉を記念し、後世に伝えるため、記念碑の建立を計画し、発起人会を設立。この総代を上林三入と共に春松が務めることとなった。明治15年から、建設基金の調達、碑石の探索・運搬・建立場所など、数々の難題を経ながら明治21年1月22日に竣工式が盛大に開催された。
現在でも、毎年10月1日に宇治製茶記念碑の前で製茶記念式典及び茗魂祭が行われている。
1925年(大正14年)
茶園が買収される
豊富な電力を有した宇治町は工業誘致に取り組む。茶業者をはじめ農民や漁民の強力な反対があったが、日本レイヨン会社の宇治工場設置が決定。春松家が当時所有していた「宇文字」「里尻」「若森」の3つの茶園二千九百坪(約957m2)が買収された。
※1913年(大正2年)宇治川水力発電所が完成し、宇治町にも町営電気事業が開始された。
1943年(昭和18年)
上林春松、応召によりビルマ戦線へ
40歳でビルマ戦線へ。昭和20年8月、日本の敗戦によって戦争の終結を迎えた。春松が日本に帰還したのは昭和21年7月であった。戦前は通信販売により、抹茶を主体に消費者へ販売していたが、戦中・戦後の混乱によりほとんどの得意先を失った。業務を再開するために、従来の通信販売から茶専門店への卸売りに業態を転換。
1959年(昭和34年)
機関誌「かんばやし」の発行
機関誌「かんばやし」を各地の茶問屋に送付。お茶についての歴史や知識、そして新茶の状況、また小売店に対しては経営や販売方法などを分かりやすく説明している。この機関誌は10年間続けられることとなる。
1978年(昭和53年)
1月 宇治・上林記念館設立
長らく本店店舗・事務所であった長屋門、また隣接の作業所が老朽化したため、改修を計画、京都環境研究所西尾氏を管理者に迎えて、53年1月上林春松個人の事業として開館。
2015年(平成27年)
4月「日本茶800年の歴史散歩」が日本遺産に認定
文部科学省より「日本茶800年の歴史散歩」が「日本遺産」に認定され、その中のひとつとして「上林記念館」を含む茶問屋の街並みも認定を受ける。
1871年(明治4年)前後
阿波蜂須賀家を頼り、徳島で茶を販売
蜂須賀家を通じて縁の深かった徳島に販路を求め、かつて知己のあった得意先に出向いて茶を販売した。その節、得意先に配った「御茶銘并価之記」(版木)には価格が両建てと円建てが表裏両面に彫られており、明治4年(1871年)に実施された新貨制度の前後に作られたものと推定され、維新後いち早く徳島に赴いていたことがわかる。
1876年(明治9年)
フィラデルフィア万国博覧会
アメリカの独立100周年を記念して、フィラデルフィアで万国博覧会が開催。
春松が上林三入と連盟で宇治茶を出品し、同博覧会総裁の褒賞を得る。
1906年(明治39年)前後
通信販売の開始
当時大手の商社が新しい商法として取り入れ始めた通信販売に求めた。従来の顧客はもとより、茶道家をはじめ、その愛好者、また、大消費地である東京を中心とした関東圏、通信販売を利用する消費者の多い北海道を中心にダイレクトメールによる宇治茶の宣伝、地方新聞への広告宣伝など、商圏を拡充するために積極的に取り組んだ。また、代金の受け入れについても明治39年に開設された郵政省の郵便振替口座にいち早く加入し、資金の速やかな流通を図った。
1915年(大正4年)
長屋門の修復
築二百年になる長屋門の修復を行う。度重なる宇治川の氾濫による柱の腐食が著しく、修理にあたってはすべての柱に根接ぎが必要であり、また、冠水を免れるため、約三尺の地上げを行うなど、かなりの経費を要した。